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ぼくはどんな写真が撮りたいのか

ぼくはどんな写真が撮りたいのか

こんにちは、KINARI FILM カメラマンの橋本です。
めっきり日が落ちるのが早くなりましたね。

さて、今回は独り言回です。とくに撮影のレポートなどはしませんので悪しからず。

この間ですね、以前から母に依頼されていたスキャン作業を仕事の合間にしたんです。
昨年の秋に京都の母方の祖母が亡くなり、その祖母と十数年前に他界した祖父が住んでいた家の遺品を整理したところ、古いアルバムが見つかりました。祖父は芸術家気質で若い頃からアニメ映画を撮ったり、毎日こけしの習作を描いたり、色々やった人でした。もちろんカメラも大好きで、1ヶ月にフィルムを何十本も使って家計を圧迫していたそうです。

そんな祖父でしたが、家族を撮った写真、というのは今まであまり見たことがありませんでした。
ところが遺品整理で出てきたアルバムにはその祖父が家族を撮った写真が、だいたいの撮影時期を添えて納めてありました。
ぼくの母の生まれたばかりのころの写真や叔父の学生時代の写真、改装する前の自宅の写真など、初めて見る時間がそこにはありました。
モノクロから始まり、徐々にカラーに移行していく過程も見られて、スキャンをしながら楽しんでいました。

祖父と祖母のツーショットもありました。お店の人に撮ってもらったのかすこし上ずった構図の中で、前歯の少し足りない祖父と洋服屋を営んだオシャレな祖母が笑っています。
その下には祖母の字で「私の編んだマフラーと」とキャプションがついていました。
そのキャプションを見たとき、あぁこれがぼくが写真を撮る意味かもしれない、と思いました。

ぼくの中には「いつか消えてしまうもの」に対する恐怖があり、それを少しでも長く保存するために写真を撮っている節があります。
祖母の編んだマフラーはどこにあるのか今とってはわかりませんし、それを笑いながら巻いていた祖父にも二度と会えません。
しかしこの写真を見たぼくの中にはマフラーを編んだ祖母とそれを巻く祖父が、あたたかい気持ちとともに再生されます。
物体としては消えてしまっても、残されたひとの中にそれを再生する装置として写真があるのであれば、ぼくの撮る写真、撮りたい写真の方向性は少しクリアになる気がしました。

何十年か経って、写真の中の本人、あるいはそのひとに残された誰かがその写真を見て、あたたかい気持ちとともに当時を再生できる写真。
それをこそぼくは撮りたい。

きっとキャプションを書いたときの祖母は、自分の編んだマフラーを巻いた祖父がそこに写っているのが、なんとも言えず嬉しかったのでしょう。
その気持ちは何度でも、本人でも、家族でも、再生できます。技巧を凝らさなくても、綺麗でなくてもいい、その場の空気をしっかり閉じ込めることができたなら、それは可能なのだと思います。

今でも家族や親戚はぼくが写真の仕事をしていることについて、「やっぱりじいちゃんの血やな」としばしば言います。
それはとても誇りに思うし、恥ずかしいことはできないな、とも思う。
ぼくも誰かを残した後には、写真をみて笑って思い出してもらえるように生きなきゃな、そんなことを考えています。

KINARI FILM 橋本 2019/11/19

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